鬱と和解したと言えるであろう状態になってひと月と言った所だろうか。
メタな自分からの視点で、
鬱の自分を認識する事で、鬱な日でも割となんなく過ごせるようになってきた。
それはどういう事か。
言葉で、しかも文章でこれを伝えるのは非常に難しいのだが、
アーカイブとして残しておきたいので、
少し試みたいと思う。
まず、主体となる人格、これは単純に主観で感じる自分だ。
その自分に対して、数名の自分を用意する。
感覚的には意図的に多重人格を装うようなものである。
この時点で、かなりのメンヘラ、もしくはかまってちゃん方向に進むことになるが、
それはひとまず置いておいてよい。
そして、用意した人格にそれぞれ役割を与える。
鬱専用君には、鬱の思考をお願いしよう。
躁専用君も居ると良い。躁は躁で危険と言うか、
無駄な体力、気力を奪われかねない存在だ。
他には面白い子ちゃん。悲しい子ちゃん。喜びちゃん。などなど。
すべての感情に専門家を配置してゆく。
そうすると、日々の出来事から得る情報と、感情を全てセパレートする事になる。
この感覚を掴むまでには少し訓練が必要だが、
是非にお勧めしたい。
そもそも多重人格は、自身を守る為に、
無意識に作ってしまう存在と言われている。
これを意図的に構築する事で、
感情をコントロールできるのではないか。
と言う仮説を、自身で検証してみたのが現状である。
さて、
件のセパレート思考をするとどうなるかだが、
例えば、鬱の状態でも、躁の状態でも、面白いと感じる為には、
3人の俺が必要になる。
まず主体が感じる。次に面白いと感じる君を配置する。
それを面白い君が鬱の子に渡すのか、躁の子に渡すのかで、
主体は感じる部分を変更できると言う事だ。
もっと言えば、面白い出来事があっても、鬱を経由すれば、
これは続かない。何の意味がある。そんな事より死にたいぜ。
となるが、
躁を経由させれば、もっと面白く感じるし、その楽しい瞬間を大事にしようとか、
また楽しくなるにはどうすれば良いか。とか。とにかくポジティブに受け取る事が可能と言う事だ。
悲しい事でも、辛い事、恐い事でも同じだ。
目の前で起きた事。
それに対して、自己の反応を瞬時に行う事の出来る、
そこそこ優秀なシステムを持っている我々人間は、
得てして忘れがちだが、
脳みそは本来、そう言った電気信号を送り合っている。
それらを、一つ一つ丁寧に行う事で、
感情の湧き上がる構造を理解する事が出来る。
これで日々の出来事に対応してゆく。
するとどうだろう。
この件は鬱にて。とか。この件の躁の部分が好きである。とか。
感じ方をコントロール下に置く事が出来るようになる。
多少のネガティブな事象にも、
ポジティブに受け取れる側面を発見しやすくなると言う事である。
すなわち、心の持ちよう。と言う話の構造は、
俺が理解するにこういう事なのかもしれないな。
と言うのが、今の見解である。
面白い事にせよ、好きなものにせよ、
そこには無意識が関連するが、
無意識にたどるプロセスをどう理解するのか。
構造はどうなって、結果を導くのかは、
それぞれ違うだろうが、
そこに癖と構造がある事は変わらないはずである。
他人全てが哲学的ゾンビだとしたら話は大きく変わるが、
きっとたぶんそんな事は無い。
こうやって鬱との付き合い方の方向性が定まった。
つまり、今後の人生との向き合い方の方向性が定まったのではないか。
と今は多少の安寧を得ている。
しかしながら、
これが崩れる程の衝撃に期待する自分が居る事も確かである。
破壊と構築。
また繰り返す自分は居るのだろうか。
現時点ではこんな感じだ。
鬱はつらい。
確かに。
ただ、これも経験でしかない。
これに無理やりにでも意味づけをしようとするから、
さらに深みに嵌るのだろう。
それはそれで破壊と構築だ。
鬱の時は鬱らしく鬱であれ。
今はそう思える。
ありがたい話だ。