• 火. 10月 15th, 2024
手打で育った米こしき米

これはずいぶん前から俺が思ってたことで、

今更書くのもどうかと思うわけなんだけど、

文字おこしはした事ないかもな。

と思って、自分でも確認の為に書いてみようと思ってたので、

ちょっくらやっていこうと思う。

内容

人生はおにぎりである。

父親の研いだ米を、母親と言う窯で炊き、

最初は親、または環境がおにぎりとしての形を形成しはじめ、

徐々に自分自身で形作ってゆく。

三角形もあれば俵もあるし、まん丸のもある。

ふっくらしてるのもあれば、ぎちぎちに固めたおにぎりもある。

形が形成されていく中で、アイデンティティが生まれ、

何の具を入れるのかを選択する。

そして自分は何おにぎりなんだ。と決めてゆく。

梅干しもあるだろう。ツナマヨでもいい。から揚げを抱くヤツもいる。

もちろん白米を突き通すヤツもいるし、最初から混ぜご飯になる事を選ぶことも出来る。

そうやって自分をカテゴライズしていく。

その上で、海苔をまとってデコレートする事もあれば、

高菜に巻かれたり、肉に巻く事もできる。

そのまま裸のおにぎりもあれば、ラップにくるまれる事もあるし、

アルミホイル、笹だったり、コンビニみたいな梱包、

キャラ弁みたいに何かを着飾る事もある。

その上で箱に入る事もあるだろうし、

その箱も弁当箱なのか、紙箱なのか、お重なのか。なんだって決める事が出来る。

そうやって、自分なりの形態を確定していく。

ここまでが前提だ。

何を意味するか。

まず、結びが緩いと崩れる。

逆に硬すぎると美味しくない。

ふっくら→硬いは出来るが一度固めたらふっくらには戻れない。

そして、中心に入れる具は変更できたとしても、

前の味が米に残ってしまう。

かといって同じ味で居続ける事に飽きる事もある。

ばくだんおにぎりのように何種類かの具を一緒に入れる事もできる。

巻いた海苔をはがしても、海苔だって残る。

白米には戻れない。

一見は銀シャリに見えても、

それはチャーハン握りを白米でコーティングしたおにぎりかもしれない。

もちろん最初から小さい、大きいの違いもある。

そうやって何かを選択し、何かを捨てて、ひとつのおにぎりとして完成してゆく。

そう、おにぎりの構造は人間そのものだ

そして父親になる人間は、どこかのタイミングで自分の何味かになった米粒を母親に渡すのだ。

母親だけは釜機能を持ち合わせ、米を増やす事が出来る。

その窯は、昔ながらの鉄かもしれないし、高性能な電気ジャーの可能性もあれば、

高出力のガス窯かもしれない。

生米をどれだけ研ぐのか。無洗米なのか。玄米入りかもしれない。

水の具合はどうするか。柔らかく炊き上げるのか、硬めなのか。

炊きあがりのおこげを好む事もあるし、実は炊き込みご飯の可能性だってある。

以上の事から、おにぎりは人間模様そのもと言える

どうだろうか。

なかなかに重なる部分が多いと思わないだろうか。

俺は思う。と言うかおにぎりを結ぶ度に、

こいつらは、これになりたかったのかな。と思うんだ。

茶碗のごはんでは表現できない。

おにぎりだからこそのシンクロ。

パエリアやピラフ、ドリア、チャーハンは全部おにぎりに出来る。

むしろおにぎりになってこそ一つのジャンル、味としてこの表現にはまる。

ここまでが俺の考える人生おにぎり論である。

まとめ

過去についた匂いも、味も消せない。

最初に梅干しになる事を選んだら、

完璧なツナマヨにはなれない。

でも完璧なゆかりおにぎりにはなれるかもしれない。

その先は。。

そもそも最初から炊き込みご飯だった自分は、銀シャリになれない。

隣のヤツにどれだけ憧れても、同じにはなかなかなりにくい。

見た目は変えられるし、パッケージを変える事が出来ても、

中心に何味かは残り続ける。

そんな自分は誰かには好まれるかもしれない。

けど一方で、誰も見向きもしない味かもしれない。

自分とは一体何おにぎりだろう。

こんな事になるかもしれない。

これはそんな話だ。

そもそも何でこんな話になったかと言えば

今日、島で育てたお米をもらったからだ。

手打で育った米こしき米

これ。こしきで育ったお米。おすそわけ。田舎あるある。田舎ニスト。

この米を眺めていて、

そいえば俺って人生おにぎり論者だった事を思い出したって話だ。

精米したてのお米。

明日にでも食べたいな。と思っている。

きっと美味しいに違いない。

明日が楽しみである。

さて。今日はこんな所で話を結ぶとしよう。おにぎりだけに。

うるさいわ

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