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唐津藩・日家村

寺沢広高(1563年~1633年)は初代唐津藩藩主である。

豊臣秀吉(1537年~1598年)に仕え、朝鮮出兵・文禄の役(ぶんろくのえき1592~1593)に際して軍功を挙げる。この出兵の時の陰の立役者と言われるのが、

日 沖次郎(ニチ オキジロウ《1563~1634》)である。

寺沢と同郷の尾張国の生まれだ。

1593年、寺沢と沖次郎は朝鮮から帰国。寺沢は8万3000石を治める藩主となる。

沖次郎は寺沢から側近になってくれと頼まれるが、戦乱で疲弊した事と、

寺沢の治める国を民の目線から見ていたいと伝え、これに肯じるが、昔馴染みと言う事と、その軍功もあった事から、唐津のとある山とその近辺の平野(約250石)を与えられた。

平野を開墾しながら、山では猟を行い、その土地を納めた。収穫は麦を中心とした。

その土地は日家村と呼ばれ、約200人の村民は豊かに暮らし始めた。

朝鮮出兵時の習慣が残る沖次郎は日々の調練を怠らなかった。それは日家村の男衆にすぐに広まり、日々の開墾、猟と共に調練を習慣とするようになる。これをまとめ上げ、精強な民兵に仕上げて行く。

寺沢にはそれを報告し、藩に対する賊への対応や、藩の軍には難しい仕事を依頼される関係となる。

1594年、寺沢は九州諸大名と繋がりがあったため、長崎代官として国際外交に携わっていた。この仕事の供回りとして沖次郎は長崎に同行する。そこで寺沢と共にキリシタンに改宗した。寺沢の洗礼名はアゴスティニョ、沖次郎の洗礼名はカブリエルとなった。

沖次郎は改宗後、キリシタン信仰にのめり込んでいた。

日家村の村人も沖次郎に倣い、キリシタン信仰を強くして行くのである。

一方、寺沢は外交面と政治面からキリシタンの改宗を受け入れただけだったため、翌年1595年にはキリシタンを名乗る事を辞めていた。

1596年に秀吉は2度目の禁教令をだし、宣教師に対する弾圧は強まった。

翌年1597年には京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて処刑した。これは日本二十六人聖人処刑と呼ばれ、寺沢はこれを機に棄教している。

沖次郎は寺沢からキリシタン信仰を捨てるように勧められたが、

沖次郎自身、キリシタン信仰は生活の基盤となり、精神の支柱とさえなっていた。

さらに日家村にも信仰が根付いている事もあり、信仰を簡単に捨てるわけには行かなかった。

そうは言っても、今後のキリシタン信仰弾圧への風潮を踏まえ、

表向きキリシタン信仰を隠す方法を考える。

沖次郎は考えた。

日家村にはキリシタン信仰以前、沖次郎が治めるよりずっと古くから、山の岩【タチイワ】を神と崇める土着信仰があった。その岩に獣の頭部を納める祭りもあった。

その祭りでは、獣に扮した被り物をかぶり、かぶりかぶりと歌い、踊りながら、感謝を込めて岩に獣の頭部のみを納めるのである。

もともとの伝承としてはこんな具合だ。

いつからか猟師が獲った獣を持って帰る途中に怪我をする事が頻発した。

その山は豊だったが、それを恐れて猟師は山に入らなくなっていった。

ある猟師は、持って帰るときに怪我をするならば。と、持って帰らずその場で食ってしまう事にした。心の臓、肝の臓を生で食らい、他の肉に手を付ける前に満腹になって寝てしまった。夢の中で女が獣の頭を持ち去り、タチイワに腰掛ける情景を見た。

起きると解体した獣の頭だけが無くなっている。恐る恐る余った肉をもって下山すると、何事もなく帰路につけた。はて。と思った猟師は、次の猟の時に、獲物の首を切って、それは山の岩に置き、体を持って山を下りてみた。また何事もなく山を下る事が出来たのである。

何故かはわからないが獲った獣の首を好んだので、その神が座るとされる岩に獣の首を納めるようになったと言う形で伝わり、それはいつしか、【かぶりさま】と崇められ、鎮魂祭を『かぶりさま祭り』として行っていた。

土地の信仰も大切に思っていた沖次郎は、

この岩は、実は聖書に示されるモーゼの十戒が刻まれた石の板の一部であると村民に伝え、頭部を納めるのは、ヨハネの首を持つサロメの意味を持つと、聖書の解釈を交えて伝え直した。

日家村の村民は納得し、キリシタン信仰と土着信仰が交わり、溶け込み、それが『カブリタン信仰』と呼ばれるようになるまでに、そう多くの時間を必要としなかったと言う。

これが今も残る、唐津山に伝わる【かぶりさま祭】の元となった逸話である。

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