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日家村末期

寺沢は1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し2400にて関ヶ原本戦でも戦功を挙げ、天草4万石が加増され合計12万石の栄華を極めた。

天草には富岡城を築城して城代・代官を派遣し、唐津や天草の土着豪族を弾圧させ安定を図った。

1614年、寺沢52歳のとき、大坂冬の陣に参陣。

また、同年に禁教令が発せられると、広沢志摩守広高は厳しくキリスト教徒へ棄教を迫るようになり、晩年には拷問もしていたとされている。

1633年4月11日に寺沢広高は死去した。享年71。

このころ、唐津のキリシタン達は、朝鮮唐津徳利などを作り、隠れた信仰を続けていたが、

弾圧は強くなり、処刑者も続出。

唐津藩の藩主が寺沢の息子・寺沢堅高の代に切り替わった翌年、1634年の事である。

寺沢広高が没したことにより、ある種、特別扱いをされていた日家村は守られなくなった。

そして、ついに日家村への追及は激しさを増し、沖次郎を含む主要人物3名は処刑される。

大総統と呼ばれた親しまれた人々だったそうだ。刑の執行日は11月22日であった。

その後、日家村の家々は焼かれ、畠、牧は踏み荒らされ、山を追われる事となる。

なんとか再集結できた50数名は、

日 沖次郎の名から、ニチオキ、ヒオキ、日沖、

そして『沖』の字を『置』に置き換え【日置】と自分たちを名乗るようになる。

その当時、キリシタンの聖地であると言われた天草。

そこにいる天草四郎に救いを求め、一行は天草に移動する。

到着した日置一行は、自分たちのキリシタン信仰、猟の技、開墾の知恵などを伝え、

さらにもともとは精強な民兵である事も加えて、一揆を画策する天草四郎に歓迎される。

1637年、その後も積極的なキリシタン弾圧を行いっていた寺沢広高の息子である寺沢堅高が起因となり島原の乱が起こる。

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