今日のテーマはこれだ。
本当の自分とやらは存在するのか問題。
先日の〇〇脳の事を考えている時に、
それはつまりペルソナとも言い換えれると思ったのだが、
各ペルソナは自分ではないのだろうか。
何かをしている時、あるいはとある環境下で、
その時に対応する自分が居るとする。
そいつはその場の最適と思われる思考をし行動をする。
しかし、俺ならこうしないなあ。
と言う選択もする。とする。
さて、他人から見た俺は最適と思われる行動をとった。
俺自身はそうじゃないなあと思った。
思考と行動。主観と客観。
ズレがあるわけだが、
どちらが俺なのだろうか。
正解はわかっている。
どちらも俺だ。
正解はわかっているが、
出来るだけややこしく考えたいのも俺だ。
そう。これも俺だ。
俺が起点となり、思考し行動し結果がある。
それは全部で俺だ。
行動と思考がずれていようが、
本当は違う選択をしたいと思っても、
俺は俺だ。
なのになぜ、
本当の俺は。とか、本当の俺なら。とか、
本当の俺を。とか、
他にも俺が居るかのように思考するのだろうか。
それはつまり、思考と行動のようにセットとして考えるからで、
理想と現実のようなセットも存在するからで、
そのズレの説明、もしくは言い訳として、
本当の自分といった言葉で、
そのズレから自分を守っているのかもしれない。
さて、思考と行動、はたまた言動、
どれをもってして自分とするか。
自分自身は観測者として、
上記3方向から観測出来るが、
他者からは行動、言動だけで観測する事になり、
思考は、その2つから推測する事しかできない。
俺は俺を観測しているが、
観測者の数だけで言えば、
他者の方が多い。
多くの観測者が居る方が、
正しい観測が行われる可能性は高い。
だとすると、
俺が観測する俺より、
他者が観測する俺の方が正しいと言える。
その場合、
自分が思う本当の自分より、
他者の思う本当の俺の方が、
より本当の俺に近い事になる。
しかし、本当の俺。
などと言う俺を知りたがるのは俺だけと言って良いだろう。
こうなってくると、
やっぱりいらなくね?本当の俺とやら。
となるのが俺の思考だ。