幸福感とは知らない事。
幸福度とは知らない事。
無知の方が幸せなんじゃないか。
と思うようになった。
別に俺が博識だとか言いたいわけではない。
単純に自分以外の誰かの事、生活、持ち物、知識、何にせよ。
知らなければ欲しくならないし、
比べる事も出来ないし、
欲求は出てこないんじゃないか。
と言う話。
赤ん坊は幸せそうだ。
そこには、まだ無限の可能性と、
幸せという概念すら存在しないからかもしれない。
また、ある人に言わせれば、
人は赤ん坊からの成長の頂点の後、
また赤ん坊に戻るようなものだ。と言う。
つまり、ある意味で、自分の事が少しづつ出来なくなり、死んで行く。
もちろんピンピンコロリな老人も居るだろう。
しかし、痴呆になって忘却の彼方へ行く人も多い。
そして、側から見た時に、なんか幸せそうだな。
と思う事もあると言う。
つまり、赤ん坊から始まって老人になるとは、
幸せから始まって幸せに終わる。
とも言えるかもしれない。
ではその途中、それは幸せなんだろうか。
己を知り、物事を知り、世間を知り、
知る事で比較対象が生まれ、
そこに幸せを阻害する要素が同時に生まれる。
それでも人には知的好奇心が備わっている。
知れば知るほど不幸になるのに、
知りたいと思ってしまう。
本能とは、生物として生存するために備わっているとするならば、
知的好奇心はきっと、危険から身を守るために備わっていたんだと思う。
危険を知らなければ、
人はいつだって簡単に死ぬ。
けど現代はどうだろう。
生命の危機はさほど考えなくても生きて行ける。
危険の総量に対して、
知的好奇心が多すぎなのではないか。
と言ったところで、知的好奇心を機能させずに生きる事は難しい。
知的好奇心を完全に無くし、
何も知らないで死ぬ。
これが幸せです。
本当に?
こうなってくると、仏教的方向に進まざるを得なくなる。
つまり、生きる事は苦しいから、
その輪から外れる事こそ幸せである。
と言う考え方。
もっと言えば、存在しない事が幸せ。
俺がここに居ないことが幸せ。
幸せに生きたい?
それはもはやパラドックスって事になってしまう。
やはり無知こそ幸せなんだろうか。
後天的ストレスによって、
自我を失い、精神を壊す人がいる。
言い方を変えれば、
無知に戻るとも言える。
つまりその理論から行けば、
幸せに戻る。とも言える。
苦しみの中から出られなくなるタイプも居る事はここではとりあえず置いておく。
痴呆の方や、精神を壊してしまった方の心には幸せと言う概念はあるのだろうか。
無いからこそ幸せなんだろうか。
唯一、赤ん坊を経験はしているが、
その時の記憶は残念ながら無い。
赤ん坊の時幸せだったと感じて居たのかわからない。
今、この瞬間、幸せですよ。
と言える人はどれくらい居るのだろう。
幸せになりたいと願う人が多いとも言う。
幸せとはなんだろうか。
最初からあって、最後もあるとして、
途中に無い。
ドーナッツを食べてる間に、
実はその穴も食べたんだよ。
と言われているような感じだ。
俺は幸せだな。
そんな事考える時間がある。
そう思う事も、それが無い人が居る可能性があると言う知識、比較から生まれる。
すなわち相対的な幸せは見つけやすい。
絶対的な幸せはどうだろうか。
俺は幸せだな。
を、絶対的に言う事。考える事。伝える事。
すごく難しいな。
幸福感はどこから来るのかな。
幸福度。度。と言う時点で、
何かしらの指針が必要となる気もする。
幸福について考える事ができる事こそ幸せ。
うむ。やっぱりこれもその裏に相対性が含まれてしまう。
幸せを求めるのが人間ならば、
それは本能ならば、
生命体は皆、幸福を求める機能が備わっているのだろうか。
幸福である事で、種は保存されるのだろうか。
ある意味で幸せと言う概念を持ったから、
人はここまで増えたとも言えるのか。
幸せについて考える事こそ不幸せなのか。
それとも幸せを考える事が、幸せを知っていると言う事になるのか。
ここまで書いて思う。
「幸せ」と「幸せな感じ」とは別物なんじゃないか。
と言うところで今日はここまでにしよう。
再定義した方が良さそうだ。