• 木. 5月 30th, 2024
まつだまつだドットコムのカバードピープルやじるし

島原の乱~鹿児島へ

敗戦後、日置一行と、天草軍の一部は鹿児島に逃げ延びる。

そしてその地域で改めて日置の名をかたり、脈々と受け継がれ、染み込んだ猟の技と開墾の知恵で土地を豊かにして行く。これが現在の日置の地名の名前の由来である。

その土地には、ヤジロウの墓と呼ばれる墓があった。

もともと住んでいた住民に話を聞くと、ヤジロウとは宣教師ザビエルの通訳なのだと言う。

そして日置の山から晴れた日にだけ見える島『甑島』は、

ヤジロウも訪れたパライソなのだと言う話もあった。

これを聞いた日置善太(ヒオキ ゼンタ)は甑島に渡る事を決意する。

日置~甑島へ

日置善太は、まずヤジロウの墓があるとされる下甑片野浦を訪れる。

そこには確かにキリシタン信仰を基にした信仰はある。

しかし、自らをクロ宗と名乗り、キリシタン信仰と言い切れない部分を多くもった教えに変わっていた。馴染み切れない日置善太は、下甑瀬々野浦地区に移動を開始する。

その途中の山の中に、唐津の日家村山中にあった巨石と似た岩を発見する。

これはあの『タチイワ』ではないか。善太は思ったと記録に残っている。

瀬々野浦の集落に到着し、自分の事、その『タチイワ』の事を話す。

集落の人たちはその岩の存在は知っていたが、

海に浮かぶ岩を信仰していたことから、その岩に名前は無かった。

善太が伝えた『タチイワ』は少し訛り、漢字をあてられて、『竪岩・タテイワ』となる。

現在も残る、甑島のパワースポットである。

しばらく瀬々野浦で暮らしたが、宣教師は手打にも居たと言う話を耳にする。

そして、手打地区に移動する。

手打地区にも隠れキリシタン信仰が残っていた事をきっかけに、

日置善太は地域に馴染み、唐津での出来事、島原の乱、今までの事を語る。

漁村だった手打の人々は、

善太の猟師の技、開墾の知恵をありがたがった。

やがて善太は手打地区の中心人物となり、

猟師の作法として、また自分の信念としてのカブリタン信仰を広める。

元々の村人たちは、キリシタン信仰者を中心に善太を神の再来と受け入れた。

そんな善太に与えられた土地、手打湾の高台は大城(ううじょう)と呼ばれていた。

かつて手打武家の長が山城を築いていた場所だと言われている。

長が、その山城から眺める景色の美しさに思わず手を打った。

これがこの地の名前「手打」の由来である。

こうして善太はパライソと言える、自分の居場所を見つけた。

大城の高台に腰掛け、手打の湾を眺める。

善太は幸せにその生涯を終えたと言う。

時は立ち2022

この手打地区「大城(ううじょう)」に移り住んだ、まつだまつだドットコムは、

曾祖父の蔵で埃をかぶった資料を発見し、この歴史を知る事になる。

山城の跡地に興味が湧き、藪をかきわけ、手打湾の見渡せる広場を発見。

その美しさに思わず手を打つ。

同時に、かすれつつも「かぶり・・・」と読み取れる祠を発見。

その地に向かう道、広場を開拓する事を決意する。

かつての日 沖次郎。日置 善太の意思をここに感じたのだ。

これがカバード祠への道プロジェクトの始まりである。

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